「悶」

ウィンブルドンの決勝見たかったなぁ。
時間的に見れていたかは分からないけど、テレビがないとこういうときには困る。


このところ生活が不規則で寝不足気味なせいか、今日も朝からずっと肩はこるし頭はじるじる痛む。
そんなすっきりしない中で、この曲のイントロが頭に浮かんだ。

王菲フェイ・ウォン) - 「悶」

何枚か王菲のアルバムを持ってるけど、この歌も入っているEMIの2枚組ベスト盤はとてもいい。
作詞は林夕、香港人
王菲好きの中国人の友人が、林夕の詞はすごくいいんだと言っていた。
林夕の詞がいいというのは、他の人からも聞いたし、YouTubeのコメントにも書いてあったりする。
その友人の言う「よさ」が、詞のストーリーやメッセージなど意味や内容がいいのか、それとも言葉遊び、リズムなど詩としていいか、どちらかは分からない。

詩(詞)の持つニュアンスや言葉の力は、その言葉を母語としてその環境にずっと暮らした人のみ真に感じ取ることができるもの。
歌は聞き取ることはできないものの、この「悶」も意味自体は、僕も辞書をひきひきすれば訳せるかもしれない。
だけど詞の裏にあるものまでは絶対に分からない、そこは残念。

ネットで過去にマーティ・フリードマンの、つんく楽曲をべた褒めの記事が出てくるけど、
さすがに詞のよさまでは分かっていないだろうな(まだ本当のよさは理解してないな、フッフッフ)と思いながら読んでる。

ここが詩(詞)におけるネイティブとノンネイティブの間の越えられない壁。
それぞれの言語にそれぞれの深みがある。
歌ではないけど宮澤賢治を読むと日本人に生まれてよかったと思う、日本語でないと絶対に得られないあの世界。